伝統漢方専門老舗


                   
         
 
 片桐棲龍堂と「血之道薬」



     

  
                                   
  
                               China View No.248 より参照しました

   
                 イスクラ産業 日本中医薬研究会  より参照しています


徳川の文化時代に入って音之輔方矩が大和小泉城主の片桐石見守貞昌公(片桐且元公縁者)
即ち石州流茶祖の血統より内室紋姫を娶り、片桐音之輔方矩と名乗りました。
この方は片桐家中興の祖として祀られています

この音之輔方矩の時代に長崎の方から京に在る父を尋ねて遥々と流浪の身をこの堺の繁華を頼ってきた
武家の息女があり、堺の浦で孤独と病苦で斃れましたので片桐家の郎党がこの女人を本家に引き取り、
当主が手厚く介抱して全快せしめました。

そして家人を京に遣わして女人の父の安否を尋ねさせたところ、その行方はようとして知れずに終わったため、
片桐家で終焉まで御世話をしました。
そしてその息女が亡くなる前に、九州島津藩の御典医の娘でるあったことを明かし、かってその父より習い覚えし
秘方の「血之道薬」をせめてもの報恩として当家に遺しおかれて瞑目されました。

かねてより医学知識のある家と薬種の豊富な堺の立地で、処方を調剤して、試みに血之道に苦しむ者に与えて見ると、
効果が著しく 全快の歓びを語るものが続出してその福音を伝播したのでありました。

幕末までは完全な「施し薬」として決して代価はとりませんでした。
本来は医家であり婦人薬は一部門にすぎないのであったが 人気の集中は婦人薬を作る事が日常の様に忙しくなり、
果ては多くの薬乞いに煩わされる当家としては、これを気兼ね無く求めたいと云う巷間の要望と
明治六年の「売薬法」の実施とともに家伝漢方製剤として官許となりました。
活血剤、安胎剤、益元湯、発散湯、棲龍丹、魏鉄丸等の自家家伝薬製剤でした。











播州居住時代は、約700年前になりますが、堺に秀吉様から土地を拝領し医師として
家伝薬を継承して、ほぼ四百数十余年で堺で14代目片桐寛龍・和三郎時代の広告資料、
明治6年に医院に併設して薬舗で販売許可、大阪府から取得、棲龍丹や各種漢方薬を
日本各地や当時の朝鮮まで販売していました。



    

   

     

        


昭和八年八月
当時大阪長堀にあった高島屋百貨店で開催の「健康長寿・薬の展覧会」に
往診御典医駕籠と同時展覧出品したもの。
初めて当家から地方へ出るので、祖父が門前で写真師に撮影させたもの。
「ちのみち薬」は当家が発祥。
下部の亀の彫り物は円山応挙筆と伝承。