日本の桜の歴史


 片桐棲龍堂庭園が戦後初めて堺市の名勝に選定されたので天然記念物、名勝の草案者
 三好学博士の桜の業績と朋友、伊藤篤太郎の自筆書入れを展示した



日本では桜の品種が古くから蓄積されてきました。
三好学氏は、桜の歴史を上古・ 中古・近古・近世4つの時代に区分しました。

上古は奈良時代以前で、この時代には野生の桜をそのまま観賞していたと想像されますが、当時の
史料が残っていないため詳細については不明です。

中古は平安時代から江戸時代直前の安土桃山時代までの約700年間で、野生の桜を都市に移植して観覚した時代です。
この時代には都のあった京都を中心として都市周辺に桜を植えていたと記録が見られるようになります。

また、後鳥羽天皇の1195年の東大寺供養のとき、興福寺の八重桜が満開であったという記録があり、このころにはすでに重弁の品種が存在していたことがわかります。

近古は江戸時代の300年間で、京都方面では中古から引き続きでさらに品種が増えをました。それらは社寺の境内などを中心に栽培され、元禄のころには数十の品種があったといわれています。

一方江戸においては、その発展とともに、京都方面も含めて全国各地の品種がしだいに集まり始めました。
大名の江戸屋敷には多数の品種が植えられ、一般庶民も花見をするようになったため、桜の名所が増えました。

江戸時代も後期になると新しい品種が急速に増加していきました。
江戸時代末期には少なくとも250くらいの品種が江戸に存在し、 その最産期は享和から天保までの間であったといわれています。

近世は明治以降の時代で、明治維新の後、桜の品種は急激に減ってしまい、 かなり多くの品種が絶滅してしまうことになります。

この時代になって桜が科学的に研究されるようになりましたが第2次大戦終了までは新しい品種の出現はみられず,江戸時代の品種で明治以降に持ち越されものの研究がもっぱら行なわれていました。

これらの研究は現在でも続いていて、 人工交配によって作出した品種が続々 と出現するようになってきています。


          
日本の桜の歴史    「桜ノ博士」三好学


      三好学(みよしまなぶ) 博士の業績   三好学博士は何をした人 ?




三好学博士は、植物学の世界では広く知られる植物学者になりましたが、名前は聞いたことがあるけれど、実除に何をした人か、どのような業績を残した人か、よく知らないという人も多いと思います。

日本の桜と花しょうぶの研究で世界的に有名な植物学者で、「桜博士」と呼ばれていたこと、 約3年間という短い間でしたが小学校の先生もしていて、『授業日誌』というくわしい記録を書いていました。

博士の書いた『授業日誌』は、日本で学校教育が始まったばかりのころに、どのような教育がされていたのかを具体的に知るための、唯一といっていいほどの貴重な史料にもなっています。

このほかにも博士はいろいろな業績を残していますが、博士を語るときに忘れてはならないふたつの業績がありますので紹介しましょう。

 日本に近代植物学をもたらした人

三好学博士は、明治時代にドイツに留学して、進んだ植物学を学んで帰国し、日本に近代植物学をもたらし、その基礎を築きました。

世界中同じですが、植物学というのはもともと、薬草を探すことから始まった学問です。中国では、「本草学」といって、 6世紀ごろに、野山の草木の中から薬になるものを集めて、薬草として分類して記録・整理したのが始まりだといわれています。この「本草学」が奈良時代に日本に伝わって以来、日本の植物学も「本草学」として発展してきました。

 

      伊藤篤太郎 いとう-とくたろう

1866"一1941 明治-昭和時代前期の植物学者。
慶応元年11月29日生まれ。伊藤圭介(けいすけ)の孫。 明治17年イギリスに 留学。
28年鹿児島高等中学造士館教授.大正10年東北帝大講師となる。
博物会 の雑誌「多識会誌」を編集した。 昭和16年3月21日死去。 77歳 尾張(おわり 愛知県)出身。
著作に「大日本植物図彙(ずい)」など。



    伊藤篤太郎の自筆書入れ

   

  


 

                 桜資料


   荒城の月  土井晩翠






相良人形
   桜の精 明治初期  初代は、米沢藩の御用窯「成島窯」を築いた相良清左衛門厚忠
  藩の役目を退いた寛政年間(1790年頃)から、屋敷裏の粘土を使った人形製作を開始



  

              
             
  


         仁清写   茶道具 抹茶茶碗 仁清写しおけいこ 茶碗
  


   

 
  

   

    

  


      


      



    

    此のプレートの図は昭和25年(1950)5月5日 89才の牧野 富太郎先生が
    自ら描いた貴重な資料である 

       志賀山文庫顧問 春原 高英 記
          昭和61年(1986)3月9日


植物学者 牧野富太郎博士(1862-1957)
牧野富太郎博士は、現在の高知県高岡郡佐川町に生まれました。高知の豊かな自然に育まれ、幼少から植物に興味を持ち、独学で植物の知識を身につけていきました。2度目の上京のとき、東京大学理学部植物学教室への出入りを許され、植物分類学の研究に打ち込むようになります。自ら創刊に携わった「植物学雑誌」に、新種ヤマトグサを発表し、日本人として国内で初めて新種に学名をつけました。94年の生涯において収集した標本は約40万枚といわれ、蔵書は約4万5千冊を数えます。新種や新品種など約1500種類以上の植物を命名し、日本植物分類学の基礎を築いた一人として知られています。現在でも研究者や愛好家の必携の書である「牧野日本植物図鑑」を刊行。全国からの要望に応じて各地を巡り、植物を知ることの大切さを一般に広く伝え、植物知識の普及にも尽力しました。1953年東京都名誉都民。1957年文化勲章受章。


      高知県立牧野植物園 牧野富太郎博士の紹介より
           https://www.makino.or.jp/dr_makino/


 
     桜資料  桜樹下宴用のお弁当


      

   

  



 

   
 

   

      名古屋帯 桜樹下宴   桜資料収集品


 

      高松藩拝領 桜花図譜塗椀

  桜花尽、20種 乱れ咲塗皿 桜花図譜未収載 江戸時代の桜20種描く 高松塗りの木製皿 
  江戸時代の桜姿 楽しんでください



  

  

  

  

  
 

櫻にちなむ展示

京都亀岡沢山。さくら石単結晶

京都府亀岡産沢山のさくら石単結晶です。
さくら石は僅青石の仮晶です。 写真の様に結晶の断面が桜の花の柄になっている鉱物です。
写真の中の奥に有る細長い結晶はさくら石の完全な単結晶の標本です。
この単結晶はどこをを割ってもその様な桜の花が出てきます。

  




                           資料館をご覧ください

ホームページ